説話徹底解説ブログ

「話の内容が分からないから古文はつまらない」そう思って投げだした経験はありませんか? 当ブログではそのような方のために説話の内容を簡単に、かつ明確に解説していきます。日本の原点である当時の説話文学を読んで、古典の世界に浸かってみませんか?

日本霊異記 上巻 三宝を信敬したてまつりて現報を得し縁 第五 前編

みなさんこんにちは! 文です。

 

GWも半分以上が終わってしまいましたね。今年は外出自粛の影響もあって、例年以上にグータラする日々が続いています(笑)

 

でもそんな時こそ!読書ですよね!

 

現代小説も魅力的ですが、日本霊異記のような古典の世界にも触れていきましょう。

 

本日は第五話です。本話には「三宝」という言葉が出てきます。これについては後ほど解説しますね。

 

本話もかなり長いので前・中・後編に分かれています。それではさっそく読んでいきましょう!

 

 

本文

①大花位大部屋栖野古の連の公は、紀伊国名草郡の宇治の大伴の連等が先祖なりき。天年澄清にして、三宝を重尊しき。

 

②本記を案ふるに曰はく、「敏達天皇のみ代に、和泉国の海中にして楽器の音声有りき。笛と筝と琴と箜篌(くご)等の声に如れり。或るときには電の振ひ動けるが如し。昼は鳴り夜は耀き、東を指して流る。大部屋栖古の連の公聞きて奏す。天皇嘿然(もだあ)りて信(まこと)としたまはず。さらに皇后に奏す。聞しめして連の公に詔りて曰はく、『汝往きて看よ』とのたまふ。詔を奉りて往きて看るときに、実に聞きしが如くに霹靂(かみとけのき)に当りし楠有りき。還り上りて奏さく、『高脚の浜に泊つ。今、屋栖伏して願はくは仏像を造るべし』とまうす。皇后詔りたまはく、『願ふ所に依るべし』とのたまふ。

 

③連の公、詔を奉りて大きに喜び、嶋の大臣に告げて詔命を伝ふ。大臣も亦喜び、池辺直氷田を請けて仏を雕(ゑ)り、菩薩三軀(はしら)のみ像を造り、豊浦の堂に居きて、諸人仰敬す。然るに物部弓削守屋の大連の公、皇后に奏して曰さく、『凡そ仏の像は国の内に置くべからず。猶し遠く退けたまへ』とまうす。皇后聞しめして、屋栖古の連の公に詔りて曰はく、『疾く此の像を隠せ』とのたまふ。連の公、詔を奉り、氷田の直をして稲の中に蔵(かく)さしむ。弓削の大連の公、火を放ちて道場を焼き、仏の像を将て難波の堀江に流す。屋栖古に徴りて言はく、『今、国家(みかど)に災を起すは、隣国の客神(まれひとがみ)の像を己が国の内に置けるに依る。斯の客神の像を出すべし。速忽(すみやか)に豊国に棄て流せ』といふ。客神は仏の神像なり。固く辞(いな)びて出さず。弓削の大連、狂ひたる心に逆を起し、傾けむと謀り便を窺ふ。

 

④爰に天亦嫌み、地復噁み、用明天皇のみ世に当りて弓削の大連を挫(とりひし)ぎつ。則ち仏の像を出して後の世に伝ふ。命もて吉野の窃寺に安置しまつりて、光を放ちたまふ阿弥陀の像是れなり。

 

 

現代語訳・解説

①主人公は、大部屋栖野古という大連です。大伴姓の先祖だと述べられていますね。彼は「三宝」を深く敬っていました。

 三宝:仏、法、僧

 

②伝記には次のような逸話があるといいます。

時代は敏達天皇の代。和泉国の海の中から楽器の音が聴こえました。昼は音が鳴っており、夜は光り輝いています。その音や光は東に向かって流れていました。

屋栖野古は、この噂を天皇に奏上します。しかし天皇は信じませんでした。皇后は「お前が実際に行って見て来なさい」と屋栖野古に命令します。実際に見ることができれば信じられますよね。(ちなみに敏達天皇の皇后は、推古天皇です)

屋栖野古が見に行くと、噂通り、「霹靂に当りし楠」がありました。「霹靂」は「」のことですね。

屋栖野古は帰って天皇・皇后にこの事実を奏上しました。そしてこう言います。「この樹で仏像を造りたく存じます

 *願はくば~べし:~したいと願う

皇后は、思うとおりにすればよいと仏像を造ることを許可します。

 

屋栖野古は大喜びで島の大臣(=蘇我馬子)と協力し、菩薩像を三体作りました。しかし物部弓削守屋は、「仏像は国内に置くべきではない。遠くにやってしまうべきだ」と主張します。

蘇我氏 VS 物部氏の対立構造の軸として重要なもののひとつに、「崇仏派」か「廃仏派」か、というものが挙げられます。物部氏は廃仏派です。その背景からこの主張がうまれるわけですね。

皇后は、屋栖野古に「仏像をただちに隠しなさい」と詔します。そこで屋栖野古は仏像を隠すのですが、弓削守屋は、道場に放火して仏像を探し出し、海に流してしまいます。そして彼は、屋栖野古にこういうのです。

「今日本に災いが起こっているのは、隣国、百済国の像などを国の中に置いているからだ。ただちにその像を渡せ。そして捨てなさい」

これについては後述しますね。

しかし屋栖野古はこの要求を拒否し、仏像を差し出すことはありませんでした。弓削は逆上し謀反を起こす機会をうかがいます。

 

④しかし、そんな弓削の態度に神々は怒り、用明天皇の時代に彼を失脚させてしまいます。その後、隠していた仏像を取り出し、後世に伝えられました。

仏像は吉野の窃寺に安置されています。光を放っている仏像がこれなのだと締めくくられます。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は、霊木によって造られた仏像と、それにまつわる蘇我氏物部氏の対立を描いたエピソードでした。

 

「今日本に災いが起こっているのは、隣国、百済国の像などを国の中に置いているからだ。ただちにその像を渡せ。そして捨てなさい」

という弓削の言葉がありましたね。

これが物部氏の主張なのです。すでに日本には神々がいるにもかかわらず、異国の神を置いているから神が怒り、災いをもたらしているのだ、という思考回路なのですね。

 

ちなみにこの話の類話は、『今昔物語集』にも収録されています。

 

三宝とは仏・法・僧のことですが、今回はそのなかでも仏を信じた人間のお話が取り上げられていました。

 

次回は中編です。引き続き屋栖野古が登場しますよ。

 

それではまた次回!

 

日本霊異記 上巻 聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 第四 後半

こんにちは!文です。

 

本日は連続投稿です。前回のお話の後半にあたります。

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 ↑前回のお話はこちらからどうぞ!

 

今回は、後半ということもありとても短いエピソードです。

サクサク読んでいきましょう!

 

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⑤又、藉(しやく)法師の弟子円勢師は、百済の国の師なりき。日本の国大倭国の葛木の高宮寺に住みき。時に一の法師有りて、北の坊に住みき。名を願覚と号ふ。其の師、常に明旦(あした)に出でて里に行き、夕を以て来りて坊に入りて居り。以て(これをも)て常の業とせり。時に円勢師の弟子の優婆塞見て師に白す。師言はく、「言うこと莫れ、黙然れ(もだあ)れ」といふ。優婆塞、窃に坊の壁を穿ちて窺へば、其の室の内、光を放ちて照り炫く。優婆塞見て復師に白す。師答へて言はく、「然有るが故に、我汝を諫めて言うこと莫れといひしなり」といふ。然して後に願覚忽然(たちまち)に命終しぬ。時に円勢師、弟子の優婆塞に告げて、「葬りて焼き収めよ」と言ふ。即ち師の告を奉りて焼き収め訖りぬ。然る後に、復其の優婆塞、近江に住みき。時に近江の有る人、「是に願覚師有り」と言ひき。即ち優婆塞往きて見るに、当に実の願覚師なり。優婆塞に逢ひて談りて言はく、「此頃謁(つかへまつ)らずして恋ひ思ふること間无し。起居安からず」といふ。当に知れ、是れ聖の反化なりといふことを。五辛を食ふは仏法の中の制にして、聖人用ゐ食へば罪を得る所无からまくのみ。

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⑤円勢は、百済からきた僧でした。彼は大和国の高宮寺に住んでいました。

またその頃、一人の法師がいて北にある僧坊に住んでいました。名前を願覚といいます。願覚は、いつも朝に出発して里に行き、夕方に帰ってきて僧坊に入るということを繰り返していました。

 

ある時、円勢の弟子の優婆塞が願覚の行動を目にしました。「優婆塞」は「在家のままで、仏道修行にはげんでいる人」のことです。頻出なので覚えておきましょう。

彼はその行動を円勢に報告します。しかし円勢は「これは誰にも言うな。黙っておきなさい」と伝えました。前回の聖徳太子を彷彿とさせますね。

しかし優婆塞は言いつけを守らず、隠れて僧坊の壁に穴をあけて見ると、その部屋のなかは光を放って輝いていました。優婆塞はこの状況を再び円勢に報告します。円勢は「だから誰にも言うなと言ったのだ」と言いました。

 

後に願覚は突然亡くなってしまいます。円勢は優婆塞に、「火葬して葬りなさい」と命じます。その通り彼は、願覚を火葬しました。

その後、優婆塞は近江国に引っ越します。その地で、ある人が「ここに願覚さんがいるのですよ」というのです。見に行ってみると、本当に願覚がいます。びっくりですよね!優婆塞がその手で確かに火葬した願覚が目の前にいるのですからね。

そして願覚は優婆塞に、「しばらく会えずにいたので落ち着けませんでした」というのです。

 

最後は筆者の解説文です。

この願覚は、聖人の生まれ変わったものであるということが明白だといいます。五辛(=にんにく、ねぎ、にら、らっきょう、あさつき)を食べるのは仏法で禁止されているが、聖人がこれを食べても罪を得ることはないのです。

 

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いかがでしたでしょうか?エピソード②は円勢と願覚、優婆塞の三人が主な登場人物です。聖徳太子、出てこなかったですね(笑)

 

エピソード①と②の共通ワードとして、1つは「聖人」が挙げられるでしょう。死んだと思われていたのに実は生きているという点で、①の乞食と②の願覚は共通していますね。

 

もしてもう一つの共通ワードとして挙げたいのは「慧眼」です。これは聖徳太子と円勢についてのキーワードですね。どちらも、実は聖人だった乞食と願覚の本質を見破っています。太子の臣下や円勢の弟子の優婆塞は、凡人であるためにそれを見抜くことは出来ませんでした。

仏教に長けた聖徳太子や円勢ほどの人物は、慧眼で物事を見通す力がある、というのがこの説話のメッセージであると思われますね。

 

それにしても、この話のまとめが五辛についてなのがよくわかりません……。『日本国語大辞典』では「五辛」について「仏教では、色欲や怒りの心などが刺激され助長されるとして、僧尼がこれらを食べることを禁じた」と解説されています。

それはわかるのですが、聖人たちが五辛を食べる描写、なかったですよね? よくわからないところであります。

 

何かわかる方がいらっしゃればぜひコメント欄にてお願いします!

 

それではまた次回お会いしましょう!

日本霊異記 上巻 聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 第四 前半

みなさんこんにちは!

 

今日はとっても暑いですね。夏日になるところも多いとか……。

熱中症にもお気を付けくださいね。

 

さて、本日は日本霊異記上巻の第四縁です。皆さんご存知の聖徳太子が登場しますよ。

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 ↑前回のお話はこちらから!

 

それではさっそく読んでいきましょう。少し長いので、前後半に分けます。

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①聖徳皇太子は、磐余の池辺の双欟(なみつき)の宮に宇御(あめのしたをさ)めたまひし橘の豊日の天皇のみ子なりき。小墾田の宮に宇御めたまひし天皇のみ代に立ちて皇太子と為りたまひき。太子にみ名三つ有り。一つのみ号は厩戸豊聡耳と曰す。二つのみ号は聖徳と曰す。三つのみ号は上つ宮と曰す。

 

②厩戸に向ひて産れたまふ。故に、厩戸と曰す。天年生れながらに知りたまひ、十人の一時に訟へ白す然を一言も漏さずして能く聞き別きたまふ。故に、豊聡耳と曰す。

 

③進止威儀僧(ふるまひよそほひほふし)に以て行ひ、加ならず勝鬢(しょうまん)法花等の経の疏(しょ)を製り、法を弘め物を刺し、考績功勲(かうしやくこうくん)の階を定めたまふ。故に、聖徳と曰す。天皇の宮より上に住みたまふ。故に、上つ宮の皇と曰す。

 

④皇太子、鵤(いかるが)の岡本の宮に居住しし時に、縁有りて宮より出で遊観に幸行(いでま)す。片岡の村の路の側に、毛有る乞○の人、病を得て臥せり。太子見して、轝より下りたまひて、倶に語りて問訊ひ、著たる衣を脱ぎたまひ、病人に覆ひて幸行しき。遊観既に訖(をは)りて、を返して幸行すに、脱ぎ覆ひし衣、木の枝に挂りて彼の乞○は旡し。太子、衣を取りて著たまふ。有る臣の白して曰さく、「賤しき人に触れて穢れたる衣、何の乏びにか更に著たまふ」とまうす。対し、「住(とど)めよ。汝は知らじ」と詔りたまふ。後に乞○の人他処にして死ぬ。太子聞きて、使を遣はして殯(もがり)し、岡本の村の法林寺の東北の角に有る守部山に墓を作りて収め、名づけて入木墓と曰ふ。後に使を遣はし看しむるに、墓の口開かずして、入れし人无く、唯歌をのみ作り書きて墓の戸に立てたり。歌に言はく、

  鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ

といふ。使還りて状を白す。太子聞き嘿然(もだあ)りて言はず。誠に知る、聖人は聖を知り。凡人は知らず。凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆと。斯れ奇しく異しき事なり。

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聖徳太子は「橘の豊日の天皇」の子供です。「橘の豊日の天皇」は「用明天皇」のことです。太子は、「小墾田の宮に宇御めたまひし天皇」の代に皇太子となります。この天皇は「推古天皇」のことですね。ちなみに推古天皇女性天皇です。

聖徳太子には三つの呼び名があります。すなわち、「厩戸豊聡耳」「聖徳太子」「上つ宮」の三つですね。厩戸、という名前は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

 

②「厩戸豊聡耳」の由来についてです。「厩戸」すなわち馬小屋で生まれたから「厩戸」というのだと述べられています。

十人の一時に訟へ白す然を一言も漏さずして能く聞き別きたまふ」、これは有名な「十人の言葉を一度に聞き分けることができる」というエピソードですね。これから「豊聡耳」という名前もついたということです。

ちなみに、「知る」という言葉は難しいのですが、『日本国語大辞典』によると「物事をすっかり自分のものにする意」とあるので、この場合は「叡知に優れている」という感じで解釈すればよいかと思いますね。

 

③「聖徳太子」の由来です。「進止威儀」は「ふるまいよそほひ」という読みが与えられている通り「立ち居振る舞い」のことです。彼はそれが僧のようでありました。また、「勝鬢経」や「法華経」を著わし、仏法を広め、冠位十二階を定めました。この行いが「聖徳太子」たる所以だというのですね。

続けて「上つ宮」の由来についても述べられています。これは簡単、住んでいた宮の場所から来ている名前のようですね。

 

④ここまでは聖徳太子の名前の由来についてのお話でした。ここからは、彼にまつわるエピソードですね。

太子が斑鳩の岡本の宮(奈良県)に住んでいらっしゃったとき、遊覧に出掛けます。片岡村(現在の王寺町付近)に来ると、道の傍らに病気の乞食がうずくまっています。太子は乞食に話しかけ、なんと着ている衣を脱いで乞食にかけてやったのです。その場ではそのまま太子が遊覧を続けて終わりです。

遊覧を終えて帰ってくると、そこには乞食の姿はありません。その代わり、衣が木に懸けられていました。太子はその衣を再び身に付けます。

それに対して臣下の一人が「賤しい人に着られて穢れた衣をどうして再び着るのでしょうか」と諫めます。太子は、黙っておけといわんばかりに答えます。「お前にはわからないだろう」と。

 

その後、乞食は別の場所で亡くなってしまいます。これを聞いた聖徳太子は、使いを遣わして墓を作ります。これを入木墓というそうです。後に使いの者が墓を見に行くと、墓が開いた様子もないのに遺体が無くなっています。そして墓の入り口に、一首の歌が詠まれていました。

  鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ

歌が来ましたね。第二縁でも説明しましたが。歌はその話の絵日記です。そこまでの話をしっかりと理解しましょう(今回は少し特殊で、絵日記的性質が薄いように感じますが……)。

~ばこそ」は未然形に接続することで仮定条件を強調します。「~のなら」という意味ですね。

  富の小川が絶えるのなら、わが大君(=聖徳太子)の名前を忘れるでしょう。絶えない限りお名前を忘れることはございません。

という意味の歌です。字面だけを追ってしまうとよくわかりませんが、川の流れが絶えない限り名前を忘れない、という裏の意味を見つけ出せればOKです。

 

使いが太子にこれを報告すると、彼は黙ったまま何も言いませんでした。「聖人は聖を知り。凡人は知らず。凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆ」というところからわかる通り、聖人である聖徳太子には、実は聖人だった乞食の本当の姿が見通せたのですね。「隠身」とは「本身を隠して、人間として現われた仏」のことです。

 

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いかがでしたでしょうか。前半は、太子の名前の由来と、エピソード①で構成されていました。

よく聞く聖徳太子のエピソードも入っていたので読みやすいと感じた方も多いのでしょうか。

次回は後半、エピソード②です。エピソード①と非常に似た話なので、ここに込められた景戒のメッセージを考えながら読みましょう。

 

それではまた次回お会いしましょう!

 

日本霊異記 上巻 電の憙を得て、生ましめし子の強力在りし縁 第三 後半

みなさんこんにちは、文です。

 

大変申し訳ございません。しばらくログインができなくなっており更新が叶いませんでした……。

後半を残して突然消えてしまったので悶々としていました。

この空白期間を取り戻すべく、張り切って更新していきたいと思います!

 

さて今回は、上巻第三縁の後半にあたる場面です。

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 ↑前半の記事はここからどうぞ!

 

雷神によって農夫にできた子どもの強力譚でしたね。つづきを読んでいきましょう!

 

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⑤然る後に少子、元興寺童子と作りき。時の其の寺の鐘堂に、夜別に死ぬ。彼の童子見て、衆僧に白して言はく、「我此の死ぬる災を止めむ」といふ。衆僧聴許(ゆる)しつ。童子、鐘堂の四つの角に四つの燈を置き、儲けたる四人に言ひ教えて、「我鬼を捉へむ時には、倶に燈の覆へる蓋を開け」といふ。然して鐘堂の戸の本に居り。鬼半夜許に来れり。童子を佇(のぞ)きて視て退く。鬼、亦後夜の時に来り入る。即ち鬼の頭髪を捉へて別に引く。鬼は外より悲喜、童子は内より引く。彼の儲けし四人、慌(ほ)れ迷ひて、蓋を開くこと得ず。童子、四角別に鬼を引きて依り、燈の蓋を開く。晨朝(じんてう)の時に至りて、鬼己の頭髪を引き剥げらえて逃げたり。

⑥明くる日、彼の鬼の血を尋ね求めて往けば、其の寺の悪しき奴を埋め立てし衢に至る。即ち知りぬ、彼の悪しき奴の霊鬼なりけりといふことを。頭髪は今に元興寺に在りて財とせり。

⑦然る後に、其の童子、優婆塞と作りて、猶し元興寺に住みき。其の寺の作田に水を引きき。諸王等妨げて水を入れず。田焼くる時に、優婆塞言はく、「吾、田の水を引かむ」といふ。衆僧聴(ゆる)す。故に、十人して、荷(も)つべき鋤柄を作りて持たしむ。優婆塞、彼の鋤柄を持ち、杖を撞きて往き、水門の水口に立てて居(す)う。諸王等、鋤柄を引き棄て、水門の口を塞ぎて寺の田に入れず。優婆塞、亦百たり余り引きの石を取りて、水門を塞ぎ、寺の田に入る。王等、優婆塞の力を恐りて終に犯さずして、故、寺の田渇れずして能く得たり。故に、寺の衆僧聴して得度し、出家せしめ、名は道場法師と号ぇき。後の世の人の伝へて謂へらく、「元興寺の道場法師、強き力多有り」といふは、是れなり。当に是に知れ、誠に先の世に強く能き縁を修めて感ぜる力なりといふことを。是れ日本国の奇しき事なり。

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いかがでしたか? 今回は前半の力比べとは全く違う話になっていますね。

 

⑤その後(力比べの後)、子どもは元興寺童子となりました。ちょうどその頃、寺の鐘堂で夜ごとに人が死ぬという事件が起きていました。童子はその事件を解決するといいます。

童子は堂の四隅に四つの燈(ランプ)を置き待機させている者たちに「我鬼を捉へむ時には、倶に燈の覆へる蓋を開け」といいます。この時すでに、童子はこの事件の犯人が鬼であるということをわかっているようですね。

真夜中に、ついに鬼がやってきます。童子は鬼に飛びついて髪の毛をひっつかまえました。「鬼は外より悲喜、童子は内より引く。」からわかるように、鬼が外に出ようとしたら童子が内側に引き戻すというやりとりが繰り広げられます。

そんな中、四人の者は怖気づいてしまい動けません。あれほど「燈の覆へる蓋を開け」と言ったにもかかわらず、です。そこで童子は、なんと鬼を引きずりながら四隅を回り、四つの蓋を全て開けてしまうのでした。鬼は髪の毛を引き抜かれて逃げていきます。

 

⑥翌日、鬼の血(血が出るほど引き抜かれていたのですね……)を辿っていくと、「寺の悪しき奴」の墓地のようなところに到着します。

*悪しき奴=謀反を起こして残虐な行為をする悪人。

つまり鬼は、「元興寺謀反を起こした悪人たちの霊が顕在化したもの」であったということです。

 

⑦その後、童子元興寺の修行者になっていました。寺で作っていた田に引き入れた水を、朝廷の王たちが嫌がらせでせき止めます。当然、水田が干上がりそうになります。「焼ける」には「日照りで作物が枯れしぼむ」という意味もあります。

修行者は「田んぼに水を引き入れましょう」と名乗り上げます。

そこで修行者は、「十人して、荷つべき鋤柄」(十人でやっと持てる)を作って水口のところに立てておきました。しかし朝廷の者たちはそれを投げ捨て、また水口を塞ぎました。

そこで修行者は、「百たり余り引きの石」で水口を塞ぎました。王たちは、その怪力を恐れて二度と水門に嫌がらせをしなくなります。それにより水田は守られました。

寺の僧たちは修行者を出家させ、道場法師と名付けます。「元興寺の道場法師、強き力多有り」という言い伝えがあるのはこういう背景があるのである、と話は締められます。そして彼が怪力を身に付けたのは、「先の世に強く能き縁を修めて感ぜる力なり」つまり、前世で善い行いを修めたからだと筆者がまとめます。

 

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雷神の子供のお話は、道場法師の誕生譚だったのですね。道場法師とは、架空の僧であるとも言われていますが一種の伝説となっています。他にも『水鏡』などに彼の説話が載っています。

また『日本国語大辞典』によると、「大太法師」の祖であるともいわれているようです。「大太法師」は伝説の巨人で、富士山を作ったり足跡が池になったりという、とんでもない逸話が残っています。『もののけ姫』の「デイダラボッチ」と同じようなものと考えてよいかと思います。

 

この話でも、日本霊異記の根底にある”前世の業が現世に影響を与える”という筋が通っていますね。次回以降の話でもこの筋が通っているのか、注目しながら読んでいきましょう。

 

それではまた次回お会いしましょう!

日本霊異記 上巻 電の憙を得て、生ましめし子の強力在りし縁 第三 前半

みなさんこんにちは!文です。

 

新型コロナウイルスの影響で明日には緊急事態宣言が出されるとか……。皆さんくれぐれも体調にはお気を付けください。不要不急の外出はだめですよ!!

 

さて、『日本霊異記』シリーズも第三話です。前回(https://ayanohakotonoha.hatenablog.com/entry/2020/04/05/191316?_ga=2.199414766.153100430.1586077962-1523123766.1576563918

は狐のお話でしたね。第二話はこちらからどうぞ!

 

今回はどのようなお話なのでしょうか。本話は長いので前後半に分けます。

 

さっそく読んでいきましょう!

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①昔、敏達天皇是は磐余の訳語田(をさだ)の宮に国食しし淳名倉太玉敷(ぬなくらふとたましき)の命ぞ。の御世に、尾張国阿育知郡(あゆちのこほり)片蕝(かたわ)の里に一の農夫有りき。作田に水を引く時に、少雨降雨るが故に、木の本に隠れ、金の杖を棠(注:手遍)きて立てり。時に電(いかづち)鳴りき。即ち恐り驚き金の杖を擎(ささ)げて立てり。

②即ち、電、彼の人の前に堕ちて、小子と成りて、其の人、金の杖を持ちて撞かむとする時に、電の言はく、「我を害ふこと莫れ。我汝の恩に報いむ」といふ。其の人問ひて、「汝、何をか報いむ」と言ふ。電答へて言はく、「汝に寄せて、子を胎ましめて報いむ。故に、我が為に楠の船を作り、水を入れ、竹の葉を泛べて賜へ」といふ。即ち、殿の言ひしが如くに作り備けて与えつ。時に、電言はく、「近依ること莫れ」といひて、遠く避らしむ。砂割り愛(くも)り霧(きら)ひて天に登りぬ。然る後に産れし児の頭は、蛇を二遍纏ひ、首・尾を後に垂れて生る。

③長大(ひととな)りて、年十有余(あまり)の頃に、朝庭(みかど)に力人有りと聞きて試みむと念ひ、来りて大宮の辺に居り。爾(ここ)に、時に臨みて王有りて、力秀れたり。当時大宮の東北の角の別院に住めり。彼の東北の角に、方八尺の石有り。力ある王、住める家より出でて、其の石を取りて投ぐ。即ち住処に入りて門を閉ぢ、他人を出入せしめず。

④少子視て念へらく、「名の聞えたる力ある人は是れなり」とおもひ、夜に人に見らえずして其の石を取り、一尺投げ益(まさ)れり。力ある王見て、手拍ち攢(たを)みて、石を取りて投ぐ。常より投げ益ること得ず。小子、亦、二尺投げ益れり。王見て二たび投ぐれども、猶し、益ること得ず。少子の立ちて石を投げし処は、小子の跡の深さ三寸み入り、其の石も亦三尺投げ益れり。王、跡を見て、是に居る小子の石を投げたるなりと念ひ、捉へむとして依れば、即ち少子逃ぐ。王追へば少子逃ぐ。王追へば、少子墻より通りて逃ぐ。少子亦返る。王墻の上より踰えて追へば、墻より亦通りて迯(に)げ走る。力ある王も、終に捉ふること得ず。我より力益れりと念ひて、更には追はず。

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①例にもよって設定を確認していきますと、時代は敏達天皇尾張の国での出来事です。ある農夫が登場人物ですね。注意してほしいのは、この農夫は主人公ではありません!最初に登場するからと言って主人公になるとは限りませんので注意しましょう。

この農夫が雨宿りをしていると、雷が轟きます。第一話(

https://ayanohakotonoha.hatenablog.com/entry/2020/04/05/191316?_ga=2.199414766.153100430.1586077962-1523123766.1576563918

)を思い出しますね(笑)。農夫はとっさにもっていた鉄の杖を振り上げます(殺す気満々……)

 

②すると雷は子どもの姿をして落ちてきます。杖で雷を殺そうとすると、雷は命乞いをします。そして「報いをする」というのです。農夫は雷に、その内容を尋ねます。するとなんと、「子どもを授ける」というのです。こういう時は、大抵その人の一番望むものを与えますから、農夫の奥さんには子供ができなかったのでしょうね。

そして、そのためにも楠の舟を造ってほしいと農夫に頼むのです。

ちなみにですが、ここはどうして楠だったのでしょうね?昔から樹には神が宿るとされており木の神は舟にのって移動するという民俗学研究もあるのですが、「楠」というのがどうもピンときません。何か意味があるはずなので、考えのある方はぜひご一報ください。

さて話をもどしまして、楠の舟を与えたところ雷は帰っていきます。そして約束通り農夫には子供が生まれました。しかしその子供の頭には蛇が巻き付いており、頭としっぽが垂れているという、人間とは思えない風貌だったのです。明らかに人間同士の子どもではないことが分かります。イエス・キリストも突如身ごもった子どもであったといわれていますが、そのような類いと考えればよいのではないかと思います。

ちなみに、今回の主人公はこの子供です。

 

③そして子供は十歳となります。その頃、朝廷に力の強い人がいると聞き力比べをしたいと思っていました。そのためわざわざ大宮の近くに住むという徹底ぶり。

そしてその「力人」とは大君でした。彼は大宮の東北の隅にある別棟に住んでいましたが、その東北の角に八尺の石がありました。一尺はだいたい30cmなので、約2.4m。とても大きいことが分かります。するとなんと王は、自分の家からその石を投げてしまうのです。

 

④子供はその石をみて、自分の探していた「力人」とはこの人なのだと確信します。そして競争の為に、夜にその石を投げ返してしまうのです。しかも「投げ益れり」との表現から、一尺分も遠くに投げたということが分かります。

そして王は、投げ返された石を発見し「手拍ち攢みて」すなわち「手をたたいたり準備運動をしたりして」、石を投げます。しかし、子どもに勝つことはできませんでした。

また子供は石を投げ返します。しかも今度は二尺も遠くに投げます。再び王は投げ返しますがやはり勝つことはできません。

すると王は、石が投げられた場所にある小さな足跡を発見します。そしてこの石を投げ返しているのはこの家に住んでいる子供なのだということに気付きました。そして子供を捕えようとします(捕えたところでどうにもならない気はしますが……)

ここからは子供と王の追いかけっこが始まります。短文が連続しており、その「戦い」の小気味よさが上手く演出されています。しかし、やはり雷の子供は身体能力が突出している様子。王は全く捕まえることができません。

結局王は捕まえることができず、「我より力益れり」と子供の力を認めてそれ以上は追うことがありませんでした。

 

いかがでしたでしょうか。第三話の前半部分をお送りしました。

これはいわゆる「強力譚(ごうりきたん)」と言われるものですね。このようなお話は他にもかなりあります。中世の代表的な説話集『古今著聞集』にも「相撲強力」という章がわざわざ建てられており、相撲譚や強力譚がたくさん収録されているんですよ。それほど、このような「力比べ」が当時の重要な遊戯であったということが想像できますね。

 

また、本話は雷神が出てきたり、異類との子どもの異常な能力を示していたりと、前回・前々回の説話との関連性がうかがわれます。説話集は、其の個々のお話ももちろんですが、配列順にも作者のこだわりが色濃く表れていることが多く、そのような観点から読んでみるのもとても面白いと思います!

 

つづきはまた明日更新します!それではまた次回お会いしましょう。

日本霊異記 上巻 狐を妻として子を生ましめし縁 第二

みなさんこんにちは!文です。

昨日はやることが多くて更新ができませんでした。

 

さて、前回から『日本霊異記』の説話パートを紹介しています。

第一話は雷神を捕まえるという面白いお話でしたね。

 

今回も負けず劣らず面白いので、楽しんで読んでいきましょう!

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①昔、欽明天皇是は磯城嶋の金刺の宮に国食(くにを)しし、天国押開広庭の命ぞ。御世に、三乃国大乃郡(みののくにおほののこほり)の人、妻とすべき好き嬢(をみな)を覓めて路を乗りて行きき。時に曠野の中にして姝(おるは)しき女遇へり。其の女、壮に媚び馴き、壮睇(めかりう)つ。言はく「何に行く稚ぞ」といふ。答ふらく、「能き縁を覓めむとして行く女なり」といふ。壮も亦語りて言はく、「我が妻と成らむや」といふ。女、「聴かむ」と答へ言ひて、「即ち家に将て交通ぎて相住みき。

②此頃、懐任(はらみ)て一の男子を生みき、時に其の家の犬、十二月の十五日に子を生みき。彼の犬の子、家室に向ふ毎に、期尅(いのご)ひ睚(にら)み眥(はにか)み嘷吠(ほ)ゆ。家室脅え惶(おそ)りて、家長に、「此の犬を打ち殺せ」と告ぐ。然あれども、患へ告げて猶し殺さず。二月三月の頃に、設けし年米を舂(つ)きし時に、其の家室、稲舂女等に間食を充てむとして碓屋(からうすや)に入りき。即ち彼の犬、家屋を咋はむとして追ひて吠ゆ。即ち驚き澡(お)ぢ恐り、野干(きつね)と成りて籠の上に登りて居り。

③家長見て言はく、「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は忘れじ。毎に来りて相寐よ」といひて、故、夫の語を誦(おぼ)えて来り寐き。故に、名は支都禰(きつね)と為ふ。時に、彼の妻、紅の襽染(すそぞめ)の裳今の桃花の裳を云ふ。を著て窃窕(さ)びて裳襽を引きつつ逝く。夫、去にし容(かほ)を視て、恋ひて歌ひて曰はく、

  恋は皆我が上に落ちぬたまかぎるはろかにみえて去にし子ゆゑに

といふ。故に、其の相生ましめし子の名を岐都禰(きつね)と号く。亦、其の子の姓を狐の直(あたへ)と負す。是の人強くして力多有りき。走ることの疾きこと鳥の飛ぶが如し。三乃国の狐の直等が根本是れなり。

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①設定として、欽明天皇の治代のお話です。今回は「三乃国大乃郡の人」が主人公ですね。だいたい「人」というと男性が多い印象ですね。女性の場合は「女」と明記されていることが多いです。

この人は、女性を求めて歩いていました。要するにナンパです。すると、「姝しき女」と出会います。美しい女ですね。説話では基本的にきれいな女性がたくさん出てきます。

さて、余談は置いておいて、ナンパ目的の男は当然声を掛けます。すると女は、「良い縁を求めて歩いている」と答えます。なんと男と目的が一緒だったのですね。これには男も大興奮、「私の妻になりませんか」と尋ねます。女は「聴かむ」と答えます。その後結婚していることからもわかるように、これは「わかりました」という意味です。

 *聞く=承知する

すぐに家に行って結婚します。当時の結婚というのは、男女の契りを結ぶことですね。当時は女性の顔を見る=結婚という常識がありました。

 

②すると女はしばらくして妊娠し、一人の男の子を産みます。それと同時に、男の家にいた犬も子犬を生みます。この子犬は、事あるごとに女に吠えます。今も犬が怪しい人に吠えまくる、といったことがあるようですね。動物は人間より嗅覚が優れているようです。ここで「犬」が選ばれているのは動物の中でも特に嗅覚が優れているからかと想像されます。

女は当然怯えて、夫に「犬を殺してほしい」と言います。しかし男も犬が可愛いため、殺しません。

二月、三月の頃、女が米つき女たち(アルバイト)に間食を出すために小屋に入っていくと、犬が女に噛みつこうとします。すると驚き恐がり、女は「野干」になってしまうのです。つまり男が妻として慕っていたのは人間ではなかったのですね。

 

③男は狐になった妻を見てこう言います。「お前と私の間には子どもがいる中なので、私はお前を忘れない。普段から家に来て一緒に寝ようではないか」普通慕っていた人間が人外なら、恐怖したり拒絶したりしますよね。それなのに男は逆に受け入れます。いい旦那さんですね。

その言葉に従い、狐は男のもとに通っていたようです。そこから「支都禰」(来つ寝=キツネ)と名付けた。その動物に「キツネ」という名前が与えられた理由譚だったということですね。

そして狐は去っていきます。これを受けて男は歌を詠みます。

  恋は皆我が上に落ちぬたまかぎるはろかにみえて去にし子ゆゑに

「たまかぎる」は「はろか」にかかる枕詞なので無視して大丈夫です。

恋は皆我が上に落ちぬ」というのは直訳すれば「恋が全て私の身の上に落ちてきた」となります。『日本国語大辞典』の語誌によると、「恋」という言葉には「目の前にない対象を求め慕う心情をいうが、その気持の裏側には、求める対象と共にいなことの悲しさや一人でいる子との寂しさがある」のです。つまり「女に会えなくてこの上なく寂しい」ということですね。

はろかにみえて去にし子ゆゑに」は「はるか遠くに去ってしまった女のせいだ」という意味で、女のことを強調しています。「はろか」は「遥か」で隔たりがあることを指します。

 

男は寂しさのあまり、女との間にできた子どもに「キツネ」と名付けました。そして姓を「狐の直」としたのです。この子は力も強く、走るのも鳥のように速かったとのことです。(通常、異類との婚姻によって生まれた子は異類の血を引いているため、人間離れした能力を有していることが多いです。)

 

 

いかがでしたでしょうか。知らずの内に狐と結婚した男の話でした。

異類婚姻譚」と呼ばれるもので、たくさんの類話があります。もちろん狐に限らず蛇などと婚姻する話もありますね。このような話に対する研究は多いので、興味のある人は論文検索サイトのCiNii(https://ci.nii.ac.jp/などで検索してみると面白いです。

 

ci.nii.ac.jp

↑CiNiiはこちらからもどうぞ

 

説話の世界では、異類は非常に妖艶・端麗な人間に変身しています。このような異類は人間から疎まれる存在であることが多いのですが、今回は一味違う、男のやさしさ・人間味が色濃く表れたお話でした。

日本人らしい話だなと思うのは私だけでしょうか?

 

今回はここまでです!それではまた次回お会いしましょう。

日本霊異記 上巻 電を捉えし縁 第一

こんにちは!文です。

 

新型コロナウイルスのせいで本当に毎日暇ですね……。せっかく家に籠るなら、ぜひ説話文学を読んでみてはいかがでしょうか?

 

さて前回から解説しています『日本霊異記』、今回からはいよいよ説話部分になります。前回の序は少し難しくてとっつきにくかったですが(笑)、今回からはお話になるので楽しく読めると思いますよ。

 

それではさっそく読んでいきましょう!

 

本文

第一段落

少子部(ちいさこべ)の栖軽は、泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に、二十三年天の下治めたまひし雄略天皇大泊瀬稚武(わかたけ)の天皇と謂(まう)す。随身にして、肺脯(しふ)の侍者なりき。天皇、磐余(いはれ)の宮に住みたまひし時に、天皇、后と大安殿に寐て婚合したまへる時に、栖軽知らずして参ゐ入りき。天皇恥ぢて輟(や)みぬ。

 

第二段落

時に当りて、空に電(いかづち)鳴りき。即ち天皇、栖軽に勅して詔(のたま)はく、「汝、鳴雷(なるかみ)を請け奉らむや」とのたまふ。答へて白(まう)さく、「請けまつらむ」とまうす。天皇詔言(のたま)はく、「爾らば汝請け奉れ」とのたまふ。栖軽勅を奉りて宮より罷り出づ。緋(あけ)の縵(かづら)を額に著け、赤き幡桙を擎(ささ)げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道と豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越の衢(ちまた)に至り、叫囁(さけ)びて請けて言(まう)さく、「天の鳴電神(なるかみ)、天皇請け呼び奉る云々」とまうす。然して此より馬を還して走りて言さく、「電神と雖も、何の故にか天皇の請けを聞かざらむ」とまうす。走り還る時に、豊浦寺と飯岡との間に、鳴電落ちて在り。栖軽みて神司を呼び、轝籠(こしこ)に入れて大宮に持ち向ひ、天皇に奏して言さく、「電神を請け奉れり」とまうす。時に電、光を放ち明り炫けり。天皇見て恐り偉(たたは)しく幣帛(みてぐら)を進(たてまつ)り、落ちし処に返さしめたまひきと者へり。今に電の岡と呼ぶ。古京の少治田(おはりだ)の宮の北に在りと者へり。

 

第三段落

然る後時に、栖軽卒せぬ。天皇勅して七日七夜留めたまひ、彼が忠信を詠(しの)ひ、電の落ちし同じ処に彼の墓を作りたまひき。永く碑文の柱を立てて言はく、「電を取りし栖軽が墓なり」といへり。此の電、悪み怨みて鳴り落ち、碑文の柱を踊(く)ゑ践(ふ)み、彼の柱の析けし間に、電揲(はさま)りて捕へらゆ。天皇、聞して電を放ちしに死なず。電慌れて七日七夜留まりて在りき。

 

第四段落

天皇の勅使、碑文の柱を樹てて言はく、「生きても死にても電を捕れる栖軽が墓なり」といひき。所謂古時、名づけて電の岡と為ふ語の本、是れなり。

 

 

現代語訳・解説 

 

第一段落

まず主人公は、「少子部の栖軽」ですね。彼は雄略天皇随身であったと記されています。

 そんな栖軽はある時、天皇と后が「大安殿」つまり大極殿で男女の交わりを交わしていたところに出くわしてしまいます。嫌ですね~(笑)。天皇は行為を辞めてしまいます。当然でしょう。

 

第二段落

するとその時、雷が鳴ります。天皇は、栖軽に「汝、鳴雷(なるかみ)を請け奉らむや」と尋ねます。つまり、雷を捕まえて来いという無理難題を押し付けたのです。

 

ここは非常に人間味あふれる記述で興味深いですね。天皇は行為を見られたことによる恥ずかしさと、お楽しみを邪魔された腹立たしさを抱いています。そこで、一刻も早く栖軽を遠ざけたい。そんな気持ちから、栖軽にちょっとしたいじわるを仕掛けたと想像されます。いくら天皇とはいえ、当然の心理のような気がします。

 

さて、そんな難題を命じられた栖軽は雷を捕まえるべく出発します。「天皇のお呼びをどうして断れるだろうか」などと言いながら走っていると、なんと実際に雷が落ちていたのです。栖軽はすぐに天皇のもとへ戻ります。

 

しかし天皇は、栖軽が捕らえた雷が光るのを見て恐くなり、元の場所に返させます。

この際天皇が「幣帛を進」っている、すなわちお供え物を用意しているところはポイントですね。当時雷、もっと広く言えば「神」という存在自体が天皇よりも上位であったことがわかります。

 

第三段落

その後主人公の栖軽はなんと死んでしまいます。そして天皇は例の雷が落ちていた場所に彼の墓を建てたのです。そしてなんとご丁寧に「電を取りし栖軽が墓なり」(雷を捕える栖軽の墓です)という碑文を立てます。

 

これには雷さんブチ切れです。屈辱ですもんね。再びそこに落ちて碑文を蹴り踏みます。しかし不運なことに碑文の割れ目に挟まって動けなくなってしまったのです。神なのにすこし情けないですね。結局天皇によって彼は助けられます。

 

第四段落

そして碑文の名前は書き換えられるのです。「生きても死にても電を捕れる栖軽が墓なり」(生きている時だけでなく死んでもなお雷を捕える栖軽の墓です)がそれです。

 

最後に「雷の岡」と呼ばれているのはこのエピソードが由来だという文が挿入されて終わりです。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?雷の擬人化、というのは面白いですね。

 

実際はこのようなことはなかったのかもしれません。少なくとも、現代ではあり得ない話です。しかしこの話は当時、笑い話としてよく伝えられたと推察できます。

 

このように説話は、実際にあったかどうかが問題ではなく、ここからどのような主題(テーマ)を学ぶか、どのような広がりを見せるか、いかに当時の世界観を見て取るか、が重要であると考えます。

 

ぜひ他の説話も読んで、当時の世界線にどっぷりと浸かっていきましょう!

 

それではまた次回お会いしましょう。