説話徹底解説ブログ

「話の内容が分からないから古文はつまらない」そう思って投げだした経験はありませんか? 当ブログではそのような方のために説話の内容を簡単に、かつ明確に解説していきます。日本の原点である当時の説話文学を読んで、古典の世界に浸かってみませんか?

日本霊異記 上巻 聖徳皇太子の異しき表を示したまひし縁 第四 前半

みなさんこんにちは!

 

今日はとっても暑いですね。夏日になるところも多いとか……。

熱中症にもお気を付けくださいね。

 

さて、本日は日本霊異記上巻の第四縁です。皆さんご存知の聖徳太子が登場しますよ。

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 ↑前回のお話はこちらから!

 

それではさっそく読んでいきましょう。少し長いので、前後半に分けます。

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①聖徳皇太子は、磐余の池辺の双欟(なみつき)の宮に宇御(あめのしたをさ)めたまひし橘の豊日の天皇のみ子なりき。小墾田の宮に宇御めたまひし天皇のみ代に立ちて皇太子と為りたまひき。太子にみ名三つ有り。一つのみ号は厩戸豊聡耳と曰す。二つのみ号は聖徳と曰す。三つのみ号は上つ宮と曰す。

 

②厩戸に向ひて産れたまふ。故に、厩戸と曰す。天年生れながらに知りたまひ、十人の一時に訟へ白す然を一言も漏さずして能く聞き別きたまふ。故に、豊聡耳と曰す。

 

③進止威儀僧(ふるまひよそほひほふし)に以て行ひ、加ならず勝鬢(しょうまん)法花等の経の疏(しょ)を製り、法を弘め物を刺し、考績功勲(かうしやくこうくん)の階を定めたまふ。故に、聖徳と曰す。天皇の宮より上に住みたまふ。故に、上つ宮の皇と曰す。

 

④皇太子、鵤(いかるが)の岡本の宮に居住しし時に、縁有りて宮より出で遊観に幸行(いでま)す。片岡の村の路の側に、毛有る乞○の人、病を得て臥せり。太子見して、轝より下りたまひて、倶に語りて問訊ひ、著たる衣を脱ぎたまひ、病人に覆ひて幸行しき。遊観既に訖(をは)りて、を返して幸行すに、脱ぎ覆ひし衣、木の枝に挂りて彼の乞○は旡し。太子、衣を取りて著たまふ。有る臣の白して曰さく、「賤しき人に触れて穢れたる衣、何の乏びにか更に著たまふ」とまうす。対し、「住(とど)めよ。汝は知らじ」と詔りたまふ。後に乞○の人他処にして死ぬ。太子聞きて、使を遣はして殯(もがり)し、岡本の村の法林寺の東北の角に有る守部山に墓を作りて収め、名づけて入木墓と曰ふ。後に使を遣はし看しむるに、墓の口開かずして、入れし人无く、唯歌をのみ作り書きて墓の戸に立てたり。歌に言はく、

  鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ

といふ。使還りて状を白す。太子聞き嘿然(もだあ)りて言はず。誠に知る、聖人は聖を知り。凡人は知らず。凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆと。斯れ奇しく異しき事なり。

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聖徳太子は「橘の豊日の天皇」の子供です。「橘の豊日の天皇」は「用明天皇」のことです。太子は、「小墾田の宮に宇御めたまひし天皇」の代に皇太子となります。この天皇は「推古天皇」のことですね。ちなみに推古天皇女性天皇です。

聖徳太子には三つの呼び名があります。すなわち、「厩戸豊聡耳」「聖徳太子」「上つ宮」の三つですね。厩戸、という名前は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

 

②「厩戸豊聡耳」の由来についてです。「厩戸」すなわち馬小屋で生まれたから「厩戸」というのだと述べられています。

十人の一時に訟へ白す然を一言も漏さずして能く聞き別きたまふ」、これは有名な「十人の言葉を一度に聞き分けることができる」というエピソードですね。これから「豊聡耳」という名前もついたということです。

ちなみに、「知る」という言葉は難しいのですが、『日本国語大辞典』によると「物事をすっかり自分のものにする意」とあるので、この場合は「叡知に優れている」という感じで解釈すればよいかと思いますね。

 

③「聖徳太子」の由来です。「進止威儀」は「ふるまいよそほひ」という読みが与えられている通り「立ち居振る舞い」のことです。彼はそれが僧のようでありました。また、「勝鬢経」や「法華経」を著わし、仏法を広め、冠位十二階を定めました。この行いが「聖徳太子」たる所以だというのですね。

続けて「上つ宮」の由来についても述べられています。これは簡単、住んでいた宮の場所から来ている名前のようですね。

 

④ここまでは聖徳太子の名前の由来についてのお話でした。ここからは、彼にまつわるエピソードですね。

太子が斑鳩の岡本の宮(奈良県)に住んでいらっしゃったとき、遊覧に出掛けます。片岡村(現在の王寺町付近)に来ると、道の傍らに病気の乞食がうずくまっています。太子は乞食に話しかけ、なんと着ている衣を脱いで乞食にかけてやったのです。その場ではそのまま太子が遊覧を続けて終わりです。

遊覧を終えて帰ってくると、そこには乞食の姿はありません。その代わり、衣が木に懸けられていました。太子はその衣を再び身に付けます。

それに対して臣下の一人が「賤しい人に着られて穢れた衣をどうして再び着るのでしょうか」と諫めます。太子は、黙っておけといわんばかりに答えます。「お前にはわからないだろう」と。

 

その後、乞食は別の場所で亡くなってしまいます。これを聞いた聖徳太子は、使いを遣わして墓を作ります。これを入木墓というそうです。後に使いの者が墓を見に行くと、墓が開いた様子もないのに遺体が無くなっています。そして墓の入り口に、一首の歌が詠まれていました。

  鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ

歌が来ましたね。第二縁でも説明しましたが。歌はその話の絵日記です。そこまでの話をしっかりと理解しましょう(今回は少し特殊で、絵日記的性質が薄いように感じますが……)。

~ばこそ」は未然形に接続することで仮定条件を強調します。「~のなら」という意味ですね。

  富の小川が絶えるのなら、わが大君(=聖徳太子)の名前を忘れるでしょう。絶えない限りお名前を忘れることはございません。

という意味の歌です。字面だけを追ってしまうとよくわかりませんが、川の流れが絶えない限り名前を忘れない、という裏の意味を見つけ出せればOKです。

 

使いが太子にこれを報告すると、彼は黙ったまま何も言いませんでした。「聖人は聖を知り。凡人は知らず。凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆ」というところからわかる通り、聖人である聖徳太子には、実は聖人だった乞食の本当の姿が見通せたのですね。「隠身」とは「本身を隠して、人間として現われた仏」のことです。

 

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いかがでしたでしょうか。前半は、太子の名前の由来と、エピソード①で構成されていました。

よく聞く聖徳太子のエピソードも入っていたので読みやすいと感じた方も多いのでしょうか。

次回は後半、エピソード②です。エピソード①と非常に似た話なので、ここに込められた景戒のメッセージを考えながら読みましょう。

 

それではまた次回お会いしましょう!