説話徹底解説ブログ

「話の内容が分からないから古文はつまらない」そう思って投げだした経験はありませんか? 当ブログではそのような方のために説話の内容を簡単に、かつ明確に解説していきます。日本の原点である当時の説話文学を読んで、古典の世界に浸かってみませんか?

日本霊異記 上巻 子の物を偸み用ゐ、牛と作りて役はれて異しき表を示しし縁 第十

こんにちは!文です。

 

日本霊異記上巻も、ついに第10話に突入しました。

上巻は全部で35話なので、約1/3まで書いてきましたね。

 

ぜひ過去の記事も読んでくださいね!

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それではさっそく解説していきましょう!

 

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 ↑第九話はこちらから

 

 

本文

第一段落

大和国添上郡の山村の中の里に、昔椋の家長の公と云ふひと有りき。十二月に当りて、方広経に依りて先の罪を懺(く)いむと欲(ねが)ひき。使人に告げて云はく、「一はしらの禅師を請くべし」といふ。其の使人問ひて曰はく、「何等の師ぞ」といふ。答へて曰はく、「其の寺を択ばず。遇ふに随ひて請けよ」といふ。其の使願に随ひて路行く一りの僧を請け得て家に帰りき。家主心を住(とど)めて供養す。

 

第二段落

其の夜、礼経已に訖りて、僧の息はむとする時に、檀主設けて、被(ふすま)を以て覆ふ。僧即ち心に念はく、「明日物を得むよりは、被を取りて出づるに如かじ」とおもふ。時に声有りて言はく、「其の被を盗ること莫れ」といふ。僧大きに驚き疑ひて、顧みて家中を窺ひ人を覓むるに、唯し牛一かしらのみ有りて、家の倉の下に立てり。僧牛の辺に進むに、語りて言はく、「吾は此の家長の父なり。しかるに吾先の世に、人に与へむと欲ひしが為に、子に告げずして稲を十束取りき。所以に今、牛の身を受けて先の債(はたり)を償ふ。汝は是れ出家なり。何ぞ輙(たやす)く被を盗む。その事の虚実を欲はば、我固めに人の坐を設けよ。我当に上り居らむ。応に其の父と知るべし」といふ。

 

第三段落

是に僧即ち大きに愧ぢ、還りて宿処に止る。朝の事行(ことわざ)既に訖りて曰はく、「他人をして遠く却かしめよ」といふ。然して後に親族を召し集へて、具に先の事を陳べき。檀越即ち悲の心を起して、馬の辺に就きて藁を敷きて白して言はく、「実に吾が父ならば、此の座に就け」といふ。牛膝を屈めて座上に臥せり。諸の親声を出して大きに啼泣きて言はく、「実に吾が父なりけり」といふ。便ち起ちて礼拝して、牛に曰して言はく、「先の時に用ゐし所は、今は咸(みな)免し奉らむ」といふ。牛聞きて涙を流して大息す。即日申の時に命終せり。

 

第四段落

然る後に、覆ひし被と財物とを以て、其の師に施し、更に其の父の為に広く功徳を修めき。因果の理、豈信ならずあらむや。

 

 

現代語訳・解説

第一段落

大和国添上郡の山村の中の里に、昔椋の家長の公という人がいた。十二月になって、『大通方広経』によって前世での罪を悔い改めようと願った。彼は召使いに告げた。「一人の禅師を連れて来てくれ」と。その召使は尋ねた。「どこの禅師にしましょうか」と。家長の公は「寺は選ばない。運命に従って連れて来なさい」と答えた。召使いはその願い通り、道を歩いている一人の僧を招いて連れ帰った。家主は真心を込めてこの僧を頼み申した。

 

第二段落

その夜は法会もすでに終わり、僧が休もうとしたとき、主人は布団を僧にかけてやった。僧は心の中で「明日布施を貰うよりは、この布団を盗んで去ってしまった方がよいだろう」と思った。

その時声が聞こえた。「その布団を盗ってはいけないぞ」僧はとても驚き不思議に思って、振り返って家中を見やって人を探したが、ただ牛が一頭家の倉の下に立っていた。

僧は牛の近くに歩み寄った。牛は「私はこの家の家長の父である。私は前世に、他の人に与えようと我が子に告げずに稲を十束盗んだ。なので今、牛の身を受けて前世の罪を償っているのである。あなたは出世の身。どうして簡単に布団を盗ろうとするのだ。この話の真偽を知りたければ、私の為に座席を用意してくれ。必ずその席に座ってみせよう。すると私が本当にこの家の家長の父であるということがわかるだろう」と言った。

 

第三段落

僧は大いに恥ずかしく思い、部屋に帰って宿に泊まった。

次の日の朝、法要が終わってから「他の人をみな遠くにやってください」と僧は言った。その後親族だけを呼び集めて、詳しく昨夜の話を話した。主人は悲しんで牛の近くに行って、藁を敷いて申し上げた。「本当に私の父ならば、この座に座ってくれ」と。

すると牛は膝を屈めて座に座った。親族の者たちは皆声を出して泣き「本当に私たちの父なんだ」と言った。そしてみなは立って一礼し、牛に言った。「前世の時に盗んだ十束は、今は全てお許し申し上げます」と。牛はこれを聞いて涙を流し、大きく息をした。そしてその日の申の時に牛は命を終えた。

 

第四段落

その後、昨夜の掛布団や財物を僧に布施として与え、さらに父の為に功徳を修めた。因果の理をどうして信じないでいられようか、いや信じないわけにはいかない。

 

 

 

まとめ

いかがでしたか?

 

今回の主人公は僧と牛ですね。特に牛は、実は家長の公の父親だったということが自身の口から語られます。

 

彼はなんと前世に稲を十束盗んだことで報いを受け、現世で牛の身を受けたというのです。この時代、牛などは畜生といわれ人間より劣る存在として考えられていたようです。畜生に生まれ変わるというのは、悪行に対する悪報なのです。

 

このお話は第八話の、報いを得て両耳が聴こえなくなった者の話と被る所がありますね。

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 

この話の第四段落では、「因果の理、豈信ならずあらむや」とあります。なので第十話の主題は、「前世の罪が現世に影響を与える」ということなのです。

 

 

また、家長たち親族は、牛の身でありながらも座に座った父をその人と認めて涙を流しました。そして前世の彼の罪を許したのです。

 

注目したいのは、牛の身であったときには親族が敬語を使っていないにも関わらず、父とわかったら敬語を使うようになることです。父に対する当時の敬意が見て取れます。

 

この辺りの家族の絆は、第九話に通じるところがありますね。

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 

このように、説話集の配列にも作者の意図が見て取れます。配列に注目して説話集を読んでみると、新たな発見もあるかもしれませんね。

 

それではまた次回お会いしましょう。

 

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日本霊異記 上巻 嬰児の鷲に擒はれて他の国にして父に遭ふこと得し縁 第九

みなさんこんにちは!文です。

 

ゴールデンウィークも終わりましたが、やはり通勤の方が増えたようですね。

仕方のないことだとは思いますが、ぜひお体に気をつけてくださいね。

 

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日本霊異記は上から読めますよ!

 

それでは、本日のお話を読んでいきましょう!

 

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 ↑前回のお話はこちらからどうぞ

 

 

本文

第一段落

飛鳥の川原の板葺の宮に宇御めたまひし天皇のみ世の癸卯の年の春の三月の頃に、但馬国七美郡の山里の人の家に、嬰児の女有りき。中庭に匍匐(はらば)ふときに、鷲り騰(あが)りて、東を指して翥(はふ)りいぬ、父母懇(あからし)びて、惻み哭き悲しび、追ひ求むれども、到る所を知らぬをもちて、故、為に福を修せり。八箇年逕て、難破の長柄の豊前の宮に、宇御めたまひし天皇のみ世の庚戌の年の秋の八月の下旬に、鷲に子をらえし父、縁の事有りて丹波の後の国加作郡の部内に至り、他の家に宿りき。

 

第二段落

其の家の童女、水を汲みに井に趣く。宿れる人、足を洗はむとして副(そ)ひ往きて見る。亦、村の童女も、井に集りて水を汲まむとして、家の童女の逬(注:しんにょう無)(つるべ)を奪ふ。惜みて奪はしめず。其の村の童女ら、皆心を同じくして凌ぎ蔑(あなづ)りて曰はく、「汝鷲の噉ひ残し、何の故ぞ、礼无き」といひて、罵り圧(おそ)ひて打ちき。拍(う)たれて哭きて帰りぬ。家主待ちて、「汝、何の故にか哭く」と問へば、宿れる人見しが如くに、具(つぶさ)に事を陳(の)ぶ。即ち彼の拍ち罵りて、鷲の噉ひ残しと曰へる所以を問ふ。家主答へて言はく、「其れの年の其れの月日の時に、余、鳩を捕らむとして登りて居しに、鷲、嬰児をり、西の方より来り、巣に落して雛に養(か)ひき。嬰児、慓(おそ)り啼く。彼の雛望て、驚き恐りて啄(つきは)まず。余、啼く音を聞きて、巣より取り下し育てし女子、是れなり」といふ。らへし年の月日の時は、挍(かむが)ふるに今の語に当りぬ。明かに我が児なりけりと知りぬ。

 

第三段落

(ここ)に父、悲しび哭きて、具に鷲のりし事を告げ知らせぬ。主の人、実なりと知り語に応へて許しつ。噫乎(ああ)、彼の父、邂逅(たまさか)に児有る家に次(やど)り、遂に是れを得たり。誠に知る、天の哀びて資(たす)くる所、父子は深き縁なりけりといふことを。是れ奇異しき事なり。

 

 

現代語訳・解説

第一段落

皇極天皇の時代の二年の春の三月の頃、但馬国七美郡の山里の人の家に、女の子の赤ん坊がいた。中庭で腹ばいをしていた時に、鷲が赤ん坊を捕えて空に飛びあがり、東へ向かって羽ばたいていってしまった。赤ん坊の父母は痛切に嘆き、強く胸を痛めて悲しく思い、赤ん坊を追って探したが、鷲の行ったところがわからなかったので、仏事を営んで赤ん坊の冥福を祈った。

それから八年後、孝徳天皇の時代の元年、秋の八月下旬に、鷲に赤ん坊を捕えられた父が、きっかけがあり、丹波国の加作郡に出かけ、ある人の家に泊まった。

 

 *飛鳥の川原の板葺の宮に宇御めたまひし天皇皇極天皇

 *嬰児=赤ん坊

 *難破の長柄の豊前の宮に宇御めたまひし天皇孝徳天皇

赤ん坊がさらわれてしまった時の様子を詳細に記述した段落ですね。

 

第二段落

その家の童女が、水を汲みに井戸に赴いた。家に泊まった人は、足を洗おうと彼女に付いていった。また、村の童女たちも水を汲もうとして、女の子の水汲み樽を奪い取ってしまった。童女は樽を奪われまいと抵抗した。

其の村の童女たちは、皆一同に彼女を蔑んで罵った。「あんたは鷲の食べ残し。なんでそんな礼知らずなことするの」そういって女の子を罵り暴力をふるった。彼女は泣きながら家に帰った。

家の主が、「どうして泣いているんだ」と問うと、泊まっていた者が、見ていたことを具体的に話した。そして彼は、どうして女の子がぶたれて罵られ、鷲の食べ残しと言われえるのかを尋ねた。

家主はこう答えた。「それそれの年のそれそれの日に、私が鳩を捕まえようと木に登ると、鷲が赤ん坊を捕えて、西の方角から来て、巣に落して雛のエサにしようとしたのです。赤ん坊は恐がって泣いていました。雛は泣き叫ぶ赤ん坊をみて恐れ、食べようとはしませんでした。私はその泣く声を聞いて巣から下ろし、女の子を育てたのです。それがこの子です」

男が赤ん坊を鷲にさらわれたのと、年月が一致した。間違いなく我が子なのだとわかった。

 

前半は、女の子がその不思議な境遇から村の子供たちからいじめを受ける場面です。或る意味子供らしい言葉の言い回しなどが見て取れますね。

後半は、父親がその女の子を自分の子どもだと確信する場面です。

 *具に=具体的に、詳細に、詳しく

 

第三段落

そこで父親は悲しみ泣きながら、我が子を鷲にさらわれた時のことを詳しく語った。家主はそれが本当の事なのだと知り、娘と住みたいという男の要請に応じて許可した。ああ、女の子の父親は、偶然自分の子どものいる家に宿り、ついに娘との再会を果たした。これは天が憐れんで助けてくれたのだ、誠に父子の縁が深いことがわかる。これは不思議な話である。

 

景戒によるまとめです。このお話で言いたかったのは、「父子は深き縁なりけり」のところですね。たとえ離れていても、偶然の産物ではありますが再会を果たします。これは、彼らの縁が深かったということを示しているのです。

着目したいのは、地の文に「噫乎」と詠嘆表現が使われていることです。基本的には有り得ない使われ方ですが、この部分が景戒の心情である、ということを押さえられれば理解がしやすいでしょう。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

比較的読みやすい話だったのではないでしょうか?

 

今回は親子の感動的な再会を描いた話でした。

 

そしてその再会は、親子の深い縁にあると筆者は分析します。

 

仏教において親子とはとても尊いものとして描かれることが多いですね。家族を大切にしなかったものが報いを受けたり、悪人が親子を大切にしたがために救われたり、ということもあります。

 

このようなお話もしっかり頭に入れておきましょう!

 

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日本霊異記 上巻 聾ひたる者の方広経典に帰敬しまつり、報を得て両つの耳ながら聞えし縁 第八

みなさんこんにちは!文です。

 

ゴールデンウィーク中は夏を思わせるような暑さでしたが、今日は少し肌寒いですね!

個人的にはこれくらいが過ごしやすくて良いです(⌒∇⌒)

 

 ↑外出自粛、こんな時には本を読みましょう!

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 ↑前回のお話はこちらから

 

 

さて、本日は第八話です。

とある「障がい」をもった人が出てきます。このような話も実は仏教説話に頻出です。

 

どうしてなのか、というところはこのお話を読んでから考えてみましょう!!

 

 

本文

第一段落

少墾田の宮に宇御(あめのしたをさ)めたまひし天皇のみ代に、衣縫伴造義通といふ者有りき。忽に重病を得て両つの耳並にひ、悪瘡(あしきかさ)身に遍(あまね)はり、年を歴れども兪えざりき。自ら謂(おも)へらく、「宿業の招く所なり。但に現報のみには非じ。長生して人の為に厭はれむよりは、善を行ひて遄(すみやか)に死なむには如かじ」とおもふ。

第二段落

乃ち地を喞(のご)ひ堂を餝(かざ)り、義禅師を屈請せむとす。先づ其の身を潔くし、香水を澡浴(かはあ)みて、方広経に依りき。是に希有なる想ひを発し、禅師に白して言さく、「今我が片耳に一はしらの菩薩のみ名を聞きたてまつるによりて、故、唯し願はくは大徳、労りを忍びたまへ」とまうす。

第三段落

後に禅師重ねて拝するに依りて、片耳既に開けぬ。義通歓喜して亦重ねて更に拝せむことを請ふときに、両つながら耳俱に開けぬ。遐(とほ)く近く聞く者、驚き怪しびずといふことなかりき。是に知る、感応の道諒に虚しからぬといふことを。

 

 

現代語訳・解説

第一段落

推古天皇の時代、衣縫伴造義通という者がいた。突然重い病にかかり、両耳が聞こえなくなり、悪性のできものが体にできてしまい、年月が経っても治らなかった。思うことには、「(この病は)前世に作った業に依るものだろう。ただ単に現世の行ないに対する報いだけではない。長生きをして人に疎まれるよりかは、業を積んで早く死んでしまうのがよい」と思った。

 

『業』という言葉が出てきます。

これは仏教語で、自らの意思によって行う行動のことを指します。また、業は善い行い・悪い行いどちらも指す言葉なのです。

そして重要なのは、業によって現世の身に影響があるのだということです。

業が善い行いなのか悪い行いなのか、というのは現世に起きている影響を考えればよいでしょう。ここでは「病を受ける」という悪い状況が義通に起きているので、前世の「宿業」というのは悪い行いと読み取れます

そして来世に救いを求めている今、行うべき業は善い行いですね。

 

第二段落

そこで彼は土地を掃除して堂を飾り、義禅師を招き迎えた。まずは自らの身を清め、香水で体を洗って、方広経を読んだ。すると不思議な感じがあり、義禅師にこう言いました。

「今、私の片耳に一人の菩薩のお名前が聞こえます。なので大徳様、御苦労をおかけしますがそのまま拝み続けてくださいませ」

 

香水」と聞くと、現代のいい香りのするスプレーを思い浮かべますよね。しかし仏教説話に出てくる「香水」は自らの身を清めるために使う水のことを指しています。このあたりは、少し現代と感覚が違いますから注意ですね。

 

第三段落

禅師は再び礼拝したことで、片方の耳が聞こえるようになった。義通はとても喜び、さらに礼拝することを頼むと、もう片方の耳もついに聞こえるようになった。このことを聞いたあちらこちらの者たちは、みな驚き不思議に思わない者はいなかった。

この話から、人と仏が心で通じ合うということは嘘ではないということがわかる。

 

遐く近く」というのは「遠近」のことですね。これは「おちこち」と読み、「あちらこちら」ということを表わします。

また、「感応」というのは人の働きかけに仏が応える、という意味の仏教語ですね。

 

 

まとめ

いかがでしたか?

今回は両耳が聴こえなくなってしまった人間が、仏の力によって聴力を取り戻すという話から、感応の重要さを説くお話でした。

 

記事の初めに、このような障がいを持つ人を仏教説話で取り上げる意味とは何かと問いかけました。その理由、わかりましたか?

 

それは、このお話の第一段落にはっきりと描かれています。

 

義通が分析した障がいの理由は「宿業の招く所なり」。つまり前世の悪い行い。

これによって現報を受け両耳が聴こえなくなったのです。

 

つまり話のキモは「業」にあるということです。

悪いことをすれば現世のみならず来世にも影響を及ぼす。

だから常に善い行いをするべきなのだ、ということを説いているのですね。

 

このあたりをしっかりと理解しておくと、日本霊異記に流れる景戒の意図が読み取りやすくなるはずです。

 

 

それではまた明日お会いしましょう!

日本霊異記 上巻 亀の命を贖ひて放生し、現報を得て亀に助けらえし縁 第七

みなさんこんにちは!文です。

 

今日も今日とて死ぬほど暑いですね。

最近の日本には春がないように感じます(-_-;)

 

さて本日は第七話です。

本話には亀が出てきます。少し身近に感じられるのではないでしょうか。

 

それでは読んでいきましょう!

 

ayanohakotonoha.hatenablog.com

 ↑前回のお話はこちらから!

 

 

本文

第一段落

禅師弘済は百済の国の人なりき。百済の乱れし時に当りて、備後の三谷郡の大領先祖、百済を救はむが為に遣はされて、旅に運(めぐ)りき。時に誓願を発して言さく、「若し、平らかに還り卒らば、諸の神祇の為に伽藍を造り立てまつらむ」とまうす。遂に災難を免れき。即ち禅師を請けて、相共に還り来り、三谷寺を造る。其の禅師の造り立てまつりし所の伽藍多なり。諸寺の道俗之を観て共に欽敬(きむきやう)を為す。

 

第二段落

禅師、尊像を造らむが為に、京に上る。財を売りて既に金丹等の物を買ひ得たり。還りて難破の津に到りし時に、海辺の人、大亀を四口売る。禅師、人に勧めて買ひて放たしむ。即ち人の舟を借りて、童子を二人将て、共に乗りて海を度(わた)る。日晩(く)れ夜深(ふ)けぬ。舟人、欲を起し、備前の骨嶋(かばねじま)の辺に行き到り、童子等を取り、人を海の中に擲(な)げき。然る後に、禅師に告げて云はく、「速に海に入るべし」といふ。師、教化すと雖も、賊猶し許さず。茲に於て願を発して海中に入る。水、腰に及ぶ時に、石の脚に当りたるを以て、其の暁に見れば、亀の負へるなりけり。其の備中の海の浦海の辺にして、其の亀三たび領(うなづ)きて去る。疑はくは、是れ放てる亀の恩を報ぜるならむかと。

 

第三段落

時に賊等六人、其の寺に金丹を売る。檀越先に過り、量り贖ひ、禅師、後より出で見る。賊等慌然(たちまち)に退進を知らず。禅師、憐愍(あはれ)びて刑罰を加へず。仏を造り、塔を厳(かざ)りて、供養已に了(をは)る。後には海辺に住(とどま)り、来れる人を化す。春秋八十有余にして卒りぬ。畜生すら猶し恩を忘れずして恩を返報せり。何にか況や、義人(ひと)にして恩を忘れむや。

 

 

現代語訳・解説

第一段落

禅師の弘済は百済国の人である。百済が乱れた時に、備後国三谷郡の大領の先祖が、百済を救うために派遣され、百済に出発した。

 

百済が乱れる」というのは六六〇年の百済の乱の事です。百済新羅の間に起きました。また、「運る」というのは「出征する」という意味ですね。

 

その時願を発して、「もし無事に国に帰ることができれば、もろもろの神たちの為に寺と堂をお造りしましょう」と申した。そして災難を免れた。

そこで彼は、弘済を招き、共に新羅から帰って三谷寺を造った。その禅師の造った寺は多くある。諸寺の僧たちは、禅師とその寺をともにつつしみ敬った。

 

最後の文の「共に」というのは何かわかりますか? これは①禅師と②禅師の建立した寺の二つといえます。このように、目的語を的確に捉えるというのが古典の基本です。

 

第二段落

禅師は仏像を造るために京に上った。そして自らの財産を打って、金と丹(赤い染料)を買った。

 

金丹というと、不老不死の薬を思い浮かべる方が多いと思いますが、ここでは「金」と「丹」で分けて考えるべきでしょう。丹で赤い染料の意味になります。

 

帰る途中難波の海辺に来た時、海辺の人が大きな亀を四匹売っているところに出くわした。禅師は売人から、この亀を買い取った。そしてその亀を海に放ってやった。

そして子供二人と船に乗って海を渡ろうとする。その間に日が暮れて夜が来た。舟をこぐ人たちは欲を起こし、備前の骨嶋のあたりに着いた時に、子どもたちを海の中に投げてしまった。

そのあと禅師に「はやく海に入れ」と言った。禅師は教え諭したものの海賊たちは聞く耳を持たない。そこで願を立て、海の中にはいった。水が腰に及んだ時に、石が足に当たったのに気付いた。朝焼けの光で見ると、亀の上に立っていることに気付いた。

そして備中の海のあたりに来ると、亀は禅師を下ろした。亀は三度うなづいて去っていった。これは禅師が放った亀が恩返ししたものと考えた。

 

第三段落

その後海賊六人は、三谷寺で盗んだ金や染料を売った。檀家のものは値踏みして買おうとしているところ、弘済禅師が後ろから出てきた。海賊たちはびっくりし、進むも退くもできなくなってしまった。

しかし禅師は彼らを憐れんで、刑罰を加えなかった仏像を造り塔を飾り、落星の供養を終えた。

その後には海辺に住み、行き来する人を教化した。そして年齢は八十歳あまりで亡くなった。

 *春秋=年齢

畜生ですら恩を忘れず恩返しする。どうして人は恩を忘れるだろうか。

 

 

まとめ

いかがでしたか?

 

本話は亀の報恩譚です。有名どころで言うと、浦島太郎と同じ話の型ですね。

亀の報恩譚も、古典では頻出の話なので覚えておきましょう。

 

それではまた次回お会いしましょう!

日本霊異記 上巻 観音菩薩を憑み念ぜしによりて、現報を得し縁 第六

みなさんこんにちは!文です。

 

緊急事態宣言は今月末まで延長されるようですね。

適度に息抜きをしつつ、自粛生活も乗り切っていきましょうね!

 

さて本日は、日本霊異記の第六話です。

第四話、五話ととても長い説話でしたが、今回は短めの話になっています!

気楽に読んでいきましょうね

 

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 ↑前回のお話はこちら!

 

それでは、第六話読んでいきましょう

 

 

本文

第一段落

老師行善は俗姓は堅部(かたしべ)氏、小治田(おはりだ)の宮に、宇御(あめのしたをさ)めたまひし天皇のみ代に、遣はされて高麗に学びき。其の国の破るるに遭ひて、流離して行きき。忽に其の河辺の椅(はし)壊れ、船無くして過ぎ渡るに由无し。断えたる橋の上(ほとり)に居て、心に観音を念じまつる。

第二段落

即時(すなはち)、老師舟に乗り迎へ逨り、同しく載せ共に渡る。渡り竟(を)へたる後に、舟より道に下りそときに、老公見えず。其の舟も忽に失せぬ。乃ち疑はくは観音の応化ならむかと。便ち誓願を発し、像を造り恭敬したてまつらむとす。遂に大唐に至り、即ち其の像を造り、日夜に帰敬せり。号をば河辺と曰ひき。

第三段落

法師の性(ひととなり)、忍辱、人より過ぎ、唐皇にも重みせらゆ。日本国の使に従ひて、養老の二年に本朝に帰り向ふ。興福寺に住み、其の像を供養しまつり、卒に息(や)めず。誠に知る、観音の威力の思議し難きことを。

第四段落

讚に曰はく、「老師、遠く学びて難に遭ひき。帰らむとするに由无し。済渡(わた)らむとして聖を憶ひ、椅の上にして威を馮(注:にじゅうあし)む。化翁来り資(たす)け、別れたる後に遄(たちまち)に翳(かく)れぬ。儀(すがた)を図し常に礼し、其の○を輟(や)めず」といふ。

 

 

現代語訳・解説

第一段落

老いた法師行善は、俗姓を堅部の氏といい、推古天皇の時代に留学生として高麗の国で学びました。

 小治田の宮に、宇御めたまひし天皇推古天皇

しかし高麗が滅亡し、行善はあてもなくさまよい歩いていました。そんな中ふと川を通りかかると、橋が壊れている上に船がなく、渡る方法がありません。

 

忽ち」は「すぐに」と訳すことが多いですが、もう一つのニュアンスとして「ある動作や状態が、予期しないで突然起こるさまを示す」と『日本国語大辞典』に記されています。そこから「ふと」という訳が導き出せるのですね。この場合はたまたま通りかかったわけですから「ふと」が適切かと思います。

 

行善は壊れた橋の上におり、心から観音を祈りました。

 

第二段落

すると、一人の置いた翁が船に乗って行善を迎えに来て川を渡ります。渡り終わって船から道に上がり着き、振り返ると翁はいません。その上船もにわかに消えてしまいます(この場合の「忽ち」は「急に」「たちまち」というニュアンスですね)。

行善は、翁が観音の応化(現世に人間体として現れること)であったのではないかと思います。そこですぐに願を立て、仏像を造ってこれを敬おうと誓いました。そして彼は唐に着き、その通りにするのです。

このエピソードから行善は、「河辺法師」と呼ばれます。

 

第三段落

行善法師は、人よりも忍耐心が強く、唐の皇帝にも重用されました。そして彼は、遣唐使によって日本に帰ります。そして興福寺に住み、観音像を奉りました。

観音の霊威が不可思議で偉大な事がわかるだろう、と締めくくられます。

 

第四段落

讃ではこのように言われています。

行善老師は遠い国で学び、困難に遭いました。帰ろうとしたときに方法がなかったのです。渡ろうとして観音を念じ、その霊威にすがりました。その結果観音が化けた翁が迎えに来て助け、行善と別れた後にたちまち姿を消しました。そこで行善はその観音の姿を像にして常に礼拝し、勤行を辞めませんでした。

これは一~三段落のまとめですね。

 

 

まとめ

いかがでしたか?非常にわかりやすい文章・短いエピソードだったので、スイスイ読むことができた方が多いのではないでしょうか。

 

今回は観音のご利益によって助けられた行善法師のお話でした。

 

音霊験譚は、霊異記のみならず仏教説話集には頻出の話です。注意して読みましょう。

 

また今回は「忽ち」という言葉が、同じ話の中でも違うニュアンスで出てきていましたね。

このように、一つひとつの語のニュアンスを正確に見抜くことが文章を正しく読むことのコツです。

本ブログでも、できるだけニュアンスの面からも解説していきたいと思っているので、一緒に学んでいきましょうね!

 

それではまたお会いしましょう。

日本霊異記 上巻 三宝を信敬したてまつりて現報を得し縁 第五 後編

こんにちは!文です。

 

さて日本霊異記 上巻 第五話をお送りしています。今回は後編です。

 

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 ↑前編はこちらからどうぞ!

 

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↑中編はこちらからどうぞ!

 

よろしければ前編・中編を読んでから後編をご覧くださいね。

 

それではさっそく読んでいきましょう!

 

本文

⑧三十三年乙酉の冬の十二月八日に、連の公難破に居住て忽に卒りぬ。屍に異香有りて馥れり。天皇勅して七日留めしめ、彼の忠を詠はしむ。

 

⑨逕ること三日にして、乃ち蘇め甦(い)きたり。妻子に語りて曰はく、『五つの色の雲有り。霓(にじ)の如くに北に度れり。其の雲の道よりして往くに、芳しきこと名香を雑ふるが如し。観れば道の頭(ほとり)に黄金の山有り、即ち到れば面炫く。爰に、薨りましし聖徳皇太子待ち立ちたまふ。共に山の頂に登る。其の金の山の頂に、一の比丘居り。太子、敬礼して曰さく、「是れは東の宮の童なり。今より已後、逕ること八日にして、応に鋸(と)き鋒に逢はむ。願はくは仙薬を服せしめたまへ」とまうす。比丘、環の一つの球を解きて授け、呑み服せしめて、是の言を作さく、「南无妙徳菩薩と三遍誦礼(ずらい)せしめよ」といふ。彼れより罷り下る。皇太子言はく、「速に家に還りて、仏を作る処を除へ。我悔過(けくわ)し畢らば、宮に還りて作らむ」とのたまふ。然して先の道を投りて還る。即ち見れば驚き蘇めたり』といふ。時の人名づけて、還り活きたる連の公と曰ふ。孝徳天皇のみ世六年の庚戌の九月に、大花上の位を賜ふ。春秋九十有余にして卒りき」。

 

⑩賛に曰はく、「善きかな、大部の氏。仙を貴び、法に○ひ、情を澄し忠を効し、命福共に存(たも)ち、世を逕て夭(なかなは)になりぬること无し。武は万機に振ひ、考は子孫に継がる。諒(まこと)に委る、三宝の験徳、善神の加護なりといふことを」といふ。

 

⑪今惟(おも)ひ推(たづ)ぬるに、ること八日にして、き鋒に逢はむと者へるは、宗我(そが)入鹿の乱に当る。八日とは八年なり。妙徳菩薩とは文殊師利菩薩なりけり。一つの玉を服せしめむと者へるは、難を免れしめむ薬なりけり。黄金の大和は五台山なり。東の宮とは日本の国なりけり。宮に還り、仏を作らむと者へるは、勝宝応真聖武大上天皇の日本国に生れたまひ、寺を作り、仏を作りたまふなりけり。爾の時に並(とも)に住む行基大徳は、文殊師利菩薩の反化なりけり。是れ奇異しき事なり。

 

 

現代語訳と解説

 ⑧三十三年、屋栖野古は死去します。彼の死体は「異香」すなわち「普通と異なるよい香り」がしていました。

『例文 仏教語大辞典』によると、異香は瑞祥の表れです。不思議な音色と香りは往生の象徴として描かれることが多いです。

推古天皇は、七日間、屋栖野古の遺体をとどめておくように命じました。

 

⑨しかしなんと、三日過ぎて屋栖野古が生き返ったのです。ここからは妻子に向かって語ったことが描写されています。

 

五色の雲があり、それは虹のように北へ渡っていました。その道を歩いていくと「芳しきこと名香」(異香と同じですね)がたちこめていました。

すると、道のほとりに黄金の山があります。この山に、亡くなった聖徳太子が立っていたのでした。そして太子と共に山頂に登っていきました。すると山頂に、一人の僧がいました。

太子は僧に向かって、「この者(=屋栖野古)は東の国(=日本国)にいた時の従者である。こやつは八日後に、するどい剣の難にあうことだろう。だからこの者に、仙薬を飲ませてやってくれ」と言いました。

すると僧は、数珠の中の一つの玉を屋栖野古に飲ませ、「南无妙徳菩薩と三遍誦礼せしめよ」と太子に言いました。言ったのは僧で、言われたのは聖徳太子、誦礼するのは屋栖野古ですよ。

聖徳太子屋栖野古にこう言います。「すぐに帰り、仏を造る場所を掃除しなさい。私は罪を悔い改め、宮に帰ってから仏像を造ろう」ここ大事ですよ。

 

すると屋栖野古は生き返ったのです。彼は「還り活きたる連の公」と呼ばれました。訳すとすれば、「よみがえった連の公」といったところでしょうか。

そして屋栖野古は、今度こそ本当に九十余歳で亡くなりました。

 

⑩賛には、「屋栖野古は立派な人間です。これは三宝の霊験によるものといえます。」とあります。

 

⑪これは作者のあとがき部分です。

八日後に、するどい剣の難にあう」というのは蘇我入鹿の乱にあたります。極楽浄土における八日というのは、現世の八年なのです。そして唱えるよう命じられた「妙徳菩薩」とは「文殊師利菩薩」のことだったのですね。

「仙薬を飲ませる」というのは災いを逃れさせる薬、「黄金の山」とは仏法の霊地である五台山のことです。

宮に帰ってから仏像を造」るというのは、聖武天皇が日本に生まれて寺院を作り、仏像を造るということでした。

聖武天皇が一緒に住んだという行基菩薩は、文殊師利菩薩の反化(=人間界に現われた姿)だったのです。

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

屋栖野古」の死後のお話でした。といってもすぐ生き返りますが(笑)

 

屋栖野古三宝を信じ敬ったが故に、素晴らしく尊い存在となったのです。三宝の重要性を説く説話でした。

 

また最後に出てくる、聖武天皇聖徳太子の生まれ変わり、というのは非常に大切な文です。日本霊異記においては、聖徳太子聖武天皇が非常に崇拝されています。どちらも仏教を広めたからですね。

 

景戒の仏教愛を感じとりながら、第六話以降も読んでいきましょう。

 

三連続投稿、読んでいただきありがとうございました!

 

それではまた次回!!

日本霊異記 上巻 三宝を信敬したてまつりて現報を得し縁 第五 中編

 みなさんこんにちは!文です。

 

第五話は前・中・後編に分けて投稿する予定です。

今日中に第五話は全部投稿しますね!

 

 

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 ↑前編はこちらからどうぞ!

 

本文

⑤皇后癸丑の年春の正月に、小墾田の宮に即位し、三十六年宇御めたまひき。元年の夏の四月庚午の朔(つきたちのひ)にして己卯に、厩戸の皇子を立てて皇太子としたまふ。即ち屋栖古の連の公を以て大使の肺脯(しふ)の侍者としたまふ。

 

天皇のみ代十三年乙丑の夏の五月の甲寅の朔にして戊午に、屋栖古の連の公に勅して曰はく、『汝の功は長遠(とこしへ)に忘れじ』とのたまひ、大信位を賜ひき。十七年己巳の春の二月に、皇太子、連の公に詔して播磨国揖保郡の内二百七十三町五段余の水田の司に遣はす。二十九年辛巳の春の二月に、皇太子の命、斑鳩の宮に薨(みまか)りたまふ。屋栖古の連の公、其の為に出家せむことを欲ふ。天皇聴したまはず。

 

⑦四十八年甲申の夏の四月に、一の大僧有りて、斧を執りて父を殴ふ。連の公見て、直ちに奏して白さく、『僧尼の澰挍には中に上座を置き、悪を犯さむときには是非を断らむべし』とまうす。天皇、勅して、『諾なり』と曰ふ。連の公、勅を奉りて澰(かむが)ふるに、僧八百三十七人、尼五百七十九人なり。観勒僧を以て大僧正とし、大信屋栖古の連の公と○部徳積とを以て僧都とす。

 

現代語訳・解説

 ⑤皇后は、即位して推古天皇となります。そして四月十日、厩戸皇子を皇太子に立てます。聖徳太子が再び登場ですね!そして屋栖野古を皇太子の従者としました。

 肺脯の従者=なくてはならない、腹心の従者

 

推古天皇の代、十三年に天皇屋栖野古へ詔を下します。そして「大信の位」を贈ります。「大信の位」は、冠位十二階の七番目の位です。

そして聖徳太子は十七年、屋栖野古播磨国の揖保郡にある水田の司に任命しました。二十九年には太子が亡くなってしまいます。屋栖野古はそれを受けて出家したいと願出でましたが、推古天皇はこれを許しませんでした。

事実の羅列、という感じの段落ですね。

 

⑦四十八年の夏に、ある高僧が斧で父親を殴るという事件が起きました。

これを知った屋栖野古は、推古天皇に「僧尼の籍から、上位の僧や尼を選んで、犯罪を犯したときにはその者たちに取り締まりをさせるべきだ」と奏上しました。天皇は「ごもっともだ」とこれを承認します。

 *うべなり=ごもっともだ、本当に道理にかなっている

屋栖野古は籍を調査して、僧と尼の人数を把握しました。その中から、僧の観勒を大僧正(最高位の僧)、屋栖野古と鞍作徳積を僧都(第二位の僧)に任命しました。

 

まとめ

いかがでしたか?

 

中編は、どちらかというとエピソードよりも事実を羅列しただけの話になっていますね。伝記からの引用であるという前編の記述から考えれば、このような話の作りも納得です。

 

今回は推古天皇の代の話でした。屋栖野古が僧籍を整えた、というのが主な内容でしたね。これは三宝のうちの「僧」にあたるところと言えるでしょう。

 

さて、いよいよ次回は後編、第五話も完結します。

お楽しみに!